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日本における農業土木の歴史 〜近世〜

日本における農業土木の歴史 〜近世〜
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農業土木は、自然に存在する土・水を、農業に効率的に利用できるように発達した土木技術です。

水田農業を軸に、日本の農業の発展に大きな影響を与えました。

農業の歴史を振り返りながら、農業土木の技術進歩の遍歴を確認するため、

にわけてまとめてみました。

今回は、近世での農業土木について紹介させていただきます。

戦国大名による広域支配

戦国大名

応仁の乱の前後から、守護大名同士の紛争が目立って増加して室町幕府は統治能力を失います。

国人一揆など国の独立意識が顕著に現れるようになって、守護大名の権威の低下を招き、守護に取って代わった守護代・国人は「戦国大名」へとなりました。

戦国大名によって、流域規模での大きな利水・治水の開発が行われました。

例を挙げると、信濃川下流域において、上杉謙信の家臣である直江山城守によって多くの支派川が本川・中ノ口川の2本に整理される治水事業が行われています。

このような大規模な治水事業を通して、水田開発が行われます。

豊臣における太閤検地

収穫量を計る升

戦国時代になってどんどん領地の規模が大きくなっていくと正確に年貢を取り立てることができないという問題が発生しました。

そこで戦国大名は年貢を賦課するために、領地の水田・畑を調査(検地)を行なっていました。

織田信長も検地を行なっておりましたが、土地の等級・単位の基準すら統一されておらず、豊臣秀吉が関わった1582年から1591年に実施された「太閤検地」によって大きく是正されます。

【太閤検地の内容】

  • 申告制である指出検地から任命された「検地奉行」による直接調査である丈量検地
  • 農地を測量する検地竿・収穫量を計る升など単位が全国統一
    ・6尺3寸=1間(約191cm)
    ・1間四方=1歩
    ・30歩=1畝
    ・10畝=1反
    ・10反=1町
  • 測量した田畑を土質・地形・灌漑設備の有無を基準に、上・中・下・下々の4等級に分類し、耕作可能面積と等級によって収穫量を計算して年貢の量を決定
  • 土地の所有関係を整理して一地一作人を原則化
  • 直接耕作者を年貢の負担者として検地帳に登録
  • 全国の土地の生産力を米の量で表す「石高制」の採用

これによって、荘園制度は崩壊し、耕作者と農地の関係が深く結び付けられました。

江戸時代 関東流・紀州流

乗越堤・霞堤・遊水地

江戸初期には、徳川家康の家臣であった関東郡代伊奈忠次によって用いられた「関東流」が水利技術の主流でした。

水害防止のために乗越堤・霞堤・遊水地などが設けられますが、自然遊水・河道の蛇行機能を維持したままで、流域内に沼沢・低湿地が点在しています。

江戸中期になり都市・農地が拡大するにつれて、関東流では問題が生じ始めます。

乱流で放置されている未開発地区では洪水が多発し、用排兼用であることから常に下流の用水確保が上流の排水困難を招き、新田開発の限界を迎えます。

そこで、徳川吉宗による「享保の改革」で、新田開発を推進するため、大畑才蔵から水利技術を学んでいる井沢弥惣兵衛為永を紀伊藩から召集しました。

利水では用排水の分離、治水では連続堤化した築堤・川除・護岸などの水制工により蛇行河道を直線状に固定して洪水を堤外に封じて海へ排水しました。

このような関東流とは異なる技術である「紀州流」は、日本の近代の河川計画の元になります。

そのため、井沢弥惣兵衛為永は、近代土木の祖とも呼ばれており、農業土木の原型でもあります。

紙媒体による技術の流布 〜農書・地方書〜

農書・地方書

江戸時代には、活字による印刷技術が向上し、農業技術を紙で伝えることが多くなりました。

農業の技術の伝え方から2つの出版物に分けられます。

  • 地方書地方役人の経験知識を記述
  • 農書農民の経験知識を記述

土木技術についてはほとんど地方書にまとめられており、大畑才蔵の『地方の聞書』が有名です。

まとめ

歴史

今回は、近世での農業土木について紹介しました。

「のうぎょうとぼく」の中では、農業土木に関する豊富な記事を書いています。

他の時代についてもぜひ勉強してみてください。

農業土木について勉強できる本については下記にてまとめていますので、ぜひご覧ください。