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日本における農業土木の歴史 〜古代編〜

日本における農業土木の歴史 古代編
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農業土木は、自然に存在する土・水を、農業に効率的に利用できるように発達した土木技術です。

水田農業を軸に、日本の農業の発展に大きな影響を与えました。

農業の歴史を振り返りながら、農業土木の技術進歩の遍歴を確認するため、

にわけてまとめてみました。

今回は、古代での農業土木について紹介させていただきます。

稲作の起源

稲作の伝来

稲の栽培は、原始時代に野生の稲の種子をまいて収穫したのが始まりだと言われています。

ジャポニカ米の栽培の起源は中国の長江流域と考えられています。

長江下流の河姆渡(かぼと)遺跡からは、約7000年前の炭化米・稲作に使われたと思われる道具が出土しています。

稲作はここからアジアの地域に広がっていき、日本への伝来のルートに諸説ありますが、青銅器・鉄器を伴った水稲稲作が中国から渡ってきました。

日本への稲作の伝来

プラントオパール

出典:菜畑遺跡の復元された水田

日本では、縄文時代後・晩期には中国伝来の水田稲作が行われていた可能性が高いとされています。

岡山県灘崎町にある彦崎貝塚の縄文時代前期(約6000年前)の地層から稲の「プラントオパール」が検出されたことから、縄文時代には稲が作付されていたと推察されています。

プラントオパールは、植物細胞内に蓄積されたケイ酸の塊で、栽培植物を判別できるものです。

稲作はここからアジアの地域に広がっていき、日本への伝来のルートに諸説ありますが、青銅器・鉄器を伴った水稲稲作が中国から渡ってきました。

稲作の伝播

登呂遺跡の弥生水田

引用:静岡市登呂博物館HP

弥生時代以降に水田稲作が本格的に始まり、北九州から本州北部へ、日本各地へ急速に広がっていきます。

BC1世紀ごろには近畿地方まで、AD3世紀ごろには東北地方の北部まで稲作が広がっていたと推察されています。

初期の水田は湿地栽培ですが、静岡県で発見された登呂遺跡の弥生水田のように、水路・堰などの灌漑文化が弥生時代には生まれていたことが分かります。

矢板・杭を大量に用い大規模なものになり、農耕具も出土しています。

灌漑以外にも、竪穴式住居・高床式倉庫の跡が発見されており、生活様式の変化に影響を与えています。

稲作を基盤とした古代国家

古墳

社会が発達して各地に豪族が生まれ、鉄器を活用して、灌漑用の溜め池を掘らせ、水路の整備も広範囲に行いました。

1人ではできない労力なので、集団を形成するきっかけにもなり、”クニ”の基盤となっていくのです。

農業土木技術を応用して古墳を作るなど権力者の力を誇示し、豪族たちの小国が統一されて「大和朝廷」となります。

人に与えた戸籍に対して6歳以上の男女に口分田を与えて、生きてる間は口分田ごとに粗という税を取り、亡くなったときに返却をさせる「班田収授法」を施行しました。

口分田を与えるために区画整理が行われ、土地の単位として条理制も導入されます。

制度だけではなく、農業の基盤を整える農業土木の技術も整備されます。

民部卿の職掌に渠池・山川藪澤の管理が任せられ、国司・郡司には灌漑施設の管理が課され、国家的に農水管理が進められます。

技術者の派遣として、池の造設を行う「造池使」・用水工事の指導をする「解工使」・水争いの紛争解決をする「検校使」が各国に送られます。

空海・行基

特に歴史に残っている技術者は、行基・空海です。

行基は、利他行を布教していく中で、農業用ため池・灌漑施設(用水路等)・農道・農道橋の整備などの土木工事を民衆広げていきました。

空海は、讃岐にある満濃池の築池別当(池を作る最高責任者)の勅命が与えられ、ため池に「余水吐き」を設置するなどの改築工事を行いました。

こうした活動のおかげもあり、民衆の飢えが解消されるようになり、土木事業の社会事業化を朝廷に認められるようになり、豪族からの資本提供も受けました。

農業土木事業が形作られ、公的に認められました。

まとめ

歴史

今回は、古代での農業土木について紹介しました。

「のうぎょうとぼく」の中では、農業土木に関する豊富な記事を書いています。

他の時代についてもぜひ勉強してみてください。

農業土木について勉強できる本については下記にてまとめていますので、ぜひご覧ください。